コラム

土地の歴史がわかる!堺の地名の由来【西区編】

地名の由来を調べてみると、その土地や地域の歴史、風土が見えてきます。
堺市では、地形、人名、伝説、いろいろな物から付けられた地名が今もたくさん使われています。
なかには、当初の漢字から転じて別の漢字に置き換えられたところも。
コラムでは堺市内の地名の由来を区別にご紹介していきますが、こちらは西区編です。

他の区の地名由来のページは、こちらのリンクからどうぞ。
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昔の西区

古くは四ツ池遺跡に見られるように縄文時代から弥生時代に集落が形成され、
近代では石津川流域で、伝統産業である和晒(わざらし)の製造が行われるとともに、白砂青松の自然海岸を有していた浜寺地区などは、関西一円からの人々で賑わいました。

伝統行事として、大鳥神社の「花摘祭」、家原寺の「大とんど」などが知られています。

土地の歴史がわかる!地名の由来【西区編】

石津(いしづ)

紀州街道に石津太神社があり、この神社の祭神で一般に戎神といわれる「蛭子命(ひるこのみこと)」(日本神話に登場する神)が、三歳の時に葺船に乗せられ流され漂着したのがこの浜です。
その時、蛭子命が固く手に握っていた五色の石から、石の着いた津(津とは一般に港など船着場のこと)という事で、石津という地名になったといわれています。
また、もう一つの説に、難波長柄豊碕朝廷(孝徳天皇)の御領である伊岐宮を造るため、讃岐の国から石を運んでこの地に陸揚げしたので、石の津になったという説もあります。

※難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)にあった朝廷。
 中大兄皇子(後の天智天皇)らによって計画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都。
 建物は、686年に全焼するまで現在の大阪市中央区に34年の間存続しました。

石津の名は「日本書紀」仁徳天皇六七年一〇月五日条に「河内の石津原に奉して、陵地を定めたまふ」とあるそうです。
また、「石津」の名は「土佐日記」や「更級日記」にも登場しており、古くから港として機能していたことがうかがえます。

鳳(おおとり)

昔は「大鳥」と書きました。
「日本書紀」にも見える古い地名で、古代から近代まで西支所区域はもとより、現在の堺市域のほとんどは、和泉国大鳥郡が占めていました。
地名は、大鳥連(むらじ)という豪族がこの地に住んでいたことに由来すると考えられています。

長く「大鳥」の字が使われていましたが、明治中期に大鳥村は「鳳」村に、その後大鳥郡も泉北郡に変わり、現在の鳳各町に引きつがれています。

大鳥と書かず「鳳」の字が使われているのは、奈良時代の名僧行基がここに神鳳寺というお寺にちなみ、その中の鳳の字を使うようになったものです。

大鳥神社は、大鳥氏の祖先をまつってきたといわれています。広い境内にはたくさんの樹々が生い茂り、古くから「千種(ちぐさ)の森」と呼ばれ親しまれてきました。日本武尊(やまとたけるのみこと)が、伊勢で病没した後、白鳥となってこの地に舞い降りたので、社を建ててまつったとの伝説も残っています。

家原寺(えばらじ)

奈良時代の名僧行基がここに建てた家原寺の寺名をとってつけられたのですが、
家原寺の寺名についても、行基が自分の家を原(もと)に建てたから家原寺とつけられたという説や、
この地方に家原姓を名のる者が多かったからだという説、
さらに、「原」とは、この地域の当時の呼び名で、自分の家と地名の原をあわせて家原寺とつけられたという説など、諸説があります。

浜寺(はまでら)

「音にきく 高師の浜のあだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ」(祐子内親王家紀伊)

これは百人一首の中の歌ですが、昔は堺の浜寺から高石までの海岸を高師の浜と呼び、「万葉集」にも詠まれた、松林の美しい海岸線が続いていました。

南北朝時代に臨済宗の僧「孤峯覚明」(のちに後村上天皇から三光国師の号を授かる)が、この地に大雄寺を建てました。
当時、吉野の日雄寺を「山寺」と呼ぶのに対し、大雄寺を「浜の寺」と呼び、それが浜寺になったのです。
大雄寺は中世の戦乱のため焼失しましたが、南海電車の伽羅橋(きゃらばし)駅周辺にあったと考えられています。

浜寺昭和(はまでらしょうわ)

昭和時代に入り、交通の発達などから住宅化が進み、浜寺に新しく昭和町が誕生しました。
堺市に合併後の昭和18年に、浜寺町大字船尾から浜寺昭和町1丁が生まれ、浜寺町大字下から浜寺昭和町5丁までの町名が誕生しました。

津久野(つくの)

昔は、「踞尾」と書かれていました。
しなしながら読みにくいということで「津久野」の文字が使われました。
地名の起源は、大昔この付近まで海で、「塩つく野原」であったことから「つくの」と呼ばれるようになったという説、
神功皇后が朝鮮から帰還された時、この地に上陸したことから「つく(着く)王」になった説、皇后がこの地でつくばわれたので「踞尾」になったという説、
また、仁徳陵、履中陵、反正陵などの造営に際し朝夕礼拝するのに蹲踞の礼をもってしたので「踞尾」となった、
すなわち「つくばい」が転じて「つくの」になったという諸説があります。

なお、大阪市大正区泉尾の「泉尾」は、元禄時代(1688~1704年)に北村六右衛門という豪農が開発したのですが、出身地の「和泉国踞尾」から和泉の「泉」と踞尾の「尾」をとって泉尾としました。つまり、泉尾は堺の地名が由来になってるのですね。

他に、堺市東区の草尾も踞尾に由来する名前ですので、東区の地名由来のページもどうぞご覧ください。

上野芝(うえのしば)

1939年(昭和14年)に、百舌鳥高田町・百舌鳥夕雲(せきうん)町・百舌鳥百済町・百舌鳥西之町の各一部からできました。
地名は、阪和電気鉄道(現:JR阪和線)が開業した上野芝駅によるもので、「上野芝」は東京の上野と芝をとったものとも言われています。


参考資料:堺市サイト
https://www.city.sakai.lg.jp/nishi/miryoku/kunitsuite/chimeiarekore.html
https://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/jutaku/jutaku/jukyohyoji/chimeiyurai.html
堀田暁生編「大阪の地名由来辞典」※

堀田暁生編「大阪の地名由来辞典」について

堀田暁生編「大阪の地名由来辞典」(東京堂出版)は、大阪府内の地名の由来を記した本です。
当ページでは、こちらの本も参考にさせていただきました。
由来だけなく、地名の変遷や、どんなところだったのか、昔の文書でどのように書かれていたか等、とても詳しく紹介されています。
現存する地名だけでなく、今は無き地名もピックアップされています。
堺だけでなく府内全域の地名をまとめたこの本は、とにかくとても面白いので、地名や変遷に興味がある方にはオススメの1冊です。

大阪の地名由来辞典 [ 堀田暁生 ]