コラム

土地の歴史がわかる!堺の地名の由来【美原区編】

地名の由来を調べてみると、その土地や地域の歴史、風土が見えてきます。
堺市では、地形、人名、伝説、いろいろな物から付けられた地名が今もたくさん使われています。
なかには、当初の漢字から転じて別の漢字に置き換えられたところも。
コラムでは堺市内の地名の由来を区別にご紹介していきますが、こちらは美原区編です。

他の区の地名由来のページは、こちらのリンクからどうぞ。
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昔の美原区

美原に私たちの祖先が住み着いたのは、およそ2千年前と推察されます。5世紀ごろの美原では、丹比氏の首長の墓と思われる黒姫山古墳が築造されました。
現在、美原に残っている古墳は、黒姫山古墳だけになってしまいましたが、発掘調査で、太井遺跡から次々と小規模の古墳が発見されています。

美原区域は、飛鳥時代の難波宮と飛鳥京を結ぶ日本最古の官道「飛鳥道」(後の竹内街道)に北端を接し、日本書紀に黒山の地名が見られるように、大和朝廷の時代から、和泉(堺)と大和を結ぶ交通の要衝として、繁栄してきました。

中世・鎌倉時代には、河内鋳物師と呼ばれる鋳造技術者集団が、東大寺再興や鎌倉大仏の鋳造などで活躍し、今なお全国の鋳物師発祥の地として伝えられています。

明治初年、廃藩置県により堺県に属し、堺県の廃止に伴い大阪府に属し、明治22年町村制によって、黒山村、平尾村、丹南村、南八下村、丹比村に編成されました。
その後、地勢・産業・風俗・文化の各分野で共通している黒山村、平尾村、丹南村が、昭和31年9月町村合併促進法に基づいて合併し、「美原町」が誕生しました。

美原の「美」には合併当時の三か村の「三」の意が、「原」には当時の集落のまわりに緑の青々とした平坦地が広がっていたことの意が、そして「美原町」にはいつまでも美しい環境を保った町であってほしいとの願望がこめられています。

その後、平成17年2月に合併によって堺市に編入され、平成18年4月には堺市の政令指定都市移行に伴い美原区となり、現在に至っています。

土地の歴史がわかる!地名の由来【美原区編】

余部(あまべ)

「余部」という地名は、鎌倉時代からみられる「余部(あまるべ)郷」にちなむものと考えられています。

石原(いしはら)

「石原」という地名は、古くは奈良時代に見られます。
平城宮造営の使役に出た人々の中に路傍で餓死する者が多数に及び、その人々を救済するために高僧「行基」が宿泊施設を造営しました。

その施設は「布施屋」と称され山城、摂津、河内、和泉で9箇所造営されています。
その一つがこの地に在ったとされ、「行基年譜」の天平13年(741年)記に「石原布施屋在丹比郡石原里」とあります。

石原布施屋は現在の石原町からほど近い、日本最古の官道と言われる「竹内街道」すなわち丹比道に沿って設けられ、古くから交通の要地として栄えたことが推定されています。

菩提(ぼだい)

菩提の地名は、古くは天平年間(729~749年)に光明皇后によって当地(現在の美原区大饗付近)に河内国分尼寺が創建されたとする伝承があり、同寺開基の天竺僧「菩提遷那」にちなんで地名が生まれたと云われています。

現在の南八下小学校の南東に国分池が現存し、その周辺からは奈良時代後期から鎌倉時代にかけての瓦が出土しました。

大饗(おわい)

大饗の地名は、古くは「続日本紀」天平神護元年(765年)10月28日条に称徳天皇が紀伊国行幸の帰途、河内国丹比郡に至ったとの記事があり、この時、当地が饗宴の場となったので地名が生まれたと言われています。

古代、大饗は丹比郡に属しましたが、平安時代後期以降は分立した八上郡に属し、弘安9年(1286年)の金剛寺(現河内長野市)、応永元年(1394年)の西琳寺(現羽曳野市)寺領田畠関係目録文書に「田井御庄大饗郷」、「正税分、但大饗郷内在之」が見られます。

大饗郷は鎌倉期~室町期に見える郷名で西除川中流左岸にあり、東西大饗村、菩提村と一村を形成、西は枝郷引野(現引野町)に至りました。寛政2年(1790年)の「東西大饗村・東西菩提村立会麁絵図」(都立中央図書館加賀文庫蔵)に、菩提村の北西部、菩提村枝郷「大饗野」と記される集落が見られます。

このことから、大饗野は大饗郷の枝郷でしたが、その後分村し、菩提村の枝郷となったと考えられています。

大饗村は東西の大饗村と菩提村の総称で、江戸時代初期には既に三村に分立していたと思われます。水利関係などでは一括して大饗村として扱われました。

菅生(すごう)

古来よりこの地は菅が多く自生していたことから、それが地名となりました。
鎌倉期には皇室領の菅生庄がありました。

多治井(たじい)

「古事記」では、堺市の東部(美原区など)から羽曳野市にまたがる広い地域を「多遅比野(たじひの)」としています。
丹比(たじひ)が丹治比、多治井と転訛したものと言われていますが、確定はされていません。
丹治比は奈良・平安時代の記録に、多治比は「古事記」などさらい古い資料にも登場しています。


参考資料:堺市サイト
https://www.city.sakai.lg.jp/mihara/miryoku/konnamachi/gaiyo.html
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000335874&page=ref_view

南八下自治連合会サイト
https://www.eonet.ne.jp/~s-yashimo/process-historic_site.html

堀田暁生編「大阪の地名由来辞典」※

堀田暁生編「大阪の地名由来辞典」について

堀田暁生編「大阪の地名由来辞典」(東京堂出版)は、大阪府内の地名の由来を記した本です。
当ページでは、こちらの本も参考にさせていただきました。
由来だけなく、地名の変遷や、どんなところだったのか、昔の文書でどのように書かれていたか等、とても詳しく紹介されています。
現存する地名だけでなく、今は無き地名もピックアップされています。
堺だけでなく府内全域の地名をまとめたこの本は、とにかくとても面白いので、地名や変遷に興味がある方にはオススメの1冊です。

大阪の地名由来辞典 [ 堀田暁生 ]