コラム

土地の歴史がわかる!堺の地名の由来【堺区編】

地名の由来を調べてみると、その土地や地域の歴史、風土が見えてきます。
堺市では、地形、人名、伝説、いろいろな物から付けられた地名が今もたくさん使われています。
なかには、当初の漢字から転じて別の漢字に置き換えられたところも。
コラムでは、堺市内の地名の由来を区別にご紹介していきますが、こちらは堺区編です。

他の区の地名由来のページは、こちらのリンクからどうぞ。
北区 東区 中区 美原区 南区 西区

昔の堺区

古代に仁徳天皇陵をはじめとする百舌鳥古墳群が造られ、中世には海外交易の要衝として経済的、文化的に栄え、東洋のベニスとうたわれるなど、歴史的に名高い地域です。
また、環濠都市の名残をとどめる、土居川や内川、社寺など豊富な文化的遺産があります。

土地の歴史がわかる!地名の由来【堺区編】

三宝(さんぼう)

今の大和川の柏原より下流部分は、宝永元年(1704年)に新しく付け替えられた人工の川です。
この大和川の運んでくる土砂のために州ができ、宝暦年間に、この地に三つの新田ができました。
三つの新田の「三」と、宝歴の「宝」の字を合わせて、「三宝」と名付けられました。

鉄砲町(てっぽうちょう)

昭和4年(1929年)に三宝村を再編する際、付近に近世は鉄砲鍛冶射的場があったことから鉄砲町という名になりました。
江戸時代には、近接する桜之町などに鉄砲鍛冶が多く住んでいました。

神南辺(かんなべ)

昔、この地に神南辺道心(かんなんべどうしん)が住んでいたことから地名となりました。

七道(しちどう)

「七堂」「七度」とも書かれ、七堂伽藍のあった地、あるいは住吉社の神輿を担ぐ人々が七度の潮垢離(しおごり)をとった地、であるからと言われています。

桜之町(さくらのちょう)

戦国期から見える町名で、桜の木がたくさん植わっていたことに由来するといわれています。

錦之町(にしきのちょう)・綾之町(あやのちょう)・錦綾町(きんりょうちょう)

京都の町が、応仁の乱の戦乱で焼野原と化した時、技量のすぐれた織物師が堺へ移住してきて、この地で『錦織り』『綾織り』などをはじめたので、
『錦之町』『綾之町』『錦綾町』などの地名がついたと言われています。
また、当時堺は外来物資の入手できる貿易港をもっていたので、都の宮人たちが着る高貴な錦に綾の織物を、大陸から伝わった布や技術で織ったところから、この地名が生まれたという説もあります。

柳之町(やなぎのちょう)

昔から堺の町の代表植物といわれた柳の木が、この付近にたくさん植えられていたので、この地名がついたと伝えられています。

北半町(きたはんちょう)・南半町(みなみはんちょう)

大坂夏の陣で、堺の町が約2万戸焼けましたが、その復興に地割奉行風間六右衛門が活躍します。
その町割の時に、南北両端の区画が少し半端になったそうです。
それで北と南に半町があると伝えられています。

北旅籠町(きたはたごちょう)・南旅篭町(みなみはたごちょう)

昔の堺の町は、南北にそれぞれ本郷と端郷、即ち四つに分かれていたそうです。
その端郷がいつしか旅籠に移り変わったという説と、旅宿があったからという説があります。

九間町(くけんちょう)

大同元年(806年)に、弘法大師が唐より帰国され、その翌年京都に行かれる途中に、この地に四面九間の堂を建立して布教されたので、この地名があると言われています。

神明町(しんめいちょう)

その昔、天保3年(1832年)に、堺港の繁栄を願う商人たちによって、神明神社が建てられたことによりこの地名が残されたと言われています。
※神明神社の創建は奈良時代初めという説もあります。なお、神明神社は明治41年(1908年)に戎之町の菅原神社に合祀されました。

宿屋町(しゃくやちょう)

この付近は昔旅人の宿場で、宿屋が多かったことからこの地名がついたそうです。

材木町(ざいもくちょう)

堺は、昔から九州・四国などの材木を港で陸揚げして、各地に運んでいました。
それによってこの地名となりました。
木屋という名前の家が多いのもその名残りです。

車之町(くるまのちょう)

寛永12年(1635年)に亡くなったと伝えられる、能学者の車屋道悦がこの地に住んでいたので、車屋の町ということから、人々は車之町と呼ぶようになったそうです。
また、道悦は具足屋を営む傍ら、謡曲本の一派を立てて有名になったそうです。

櫛屋町(くしやちょう)

堺名物「天神前櫛」などの櫛を扱う櫛問屋が多かったことに由来するといわれています。
町の南東には天神(菅原神社)が隣接しており、関連が想定されています。

戎之町(えびすのちょう)

戦国期から見える町名で、当地にあった戎神社に由来するといわれています。

熊野町(くまのちょう)

熊野をクマノと読むかユヤと読むか種々論議が分かれていますが、もとは湯屋町となっていました。
それが、明治5年(1872年)の町名改正の時に、熊野町となりました。
字だけ変えたのか呼び名も改めたのか明らかではなく、両方使われています。
湯屋が多く並んでいたところから湯屋町の地名になったと言われていますが、
一説には、天神の境内において風呂を炊きだして一般の人々に施したところから、この名がついたとも言われています。

明治5年、当地にあった熊野神社にちなみ「熊野」に改字し、読みも次第に「くまの」に変わりましたが、今も小学校名などに「ゆや」の読みが残っています。

市之町(いちのちょう)

戦国期から見える町名で、摂津と和泉の国境であった大小路筋に面する当地は、堺の町の中心地で、いろいろな「市」が開かれたことに由来するといわれています。

甲斐町(かいのちょう)

戦国期から見える町名で、神功皇后がこの地に「甲(かぶと)」を納めまつったことに由来するといわれています。

大町(おおちょう)

富裕者が多く住み、身代の「大なる町」というところから名づけられたといわれています。

宿院町(しゅくいんちょう)

室町期から見える町名で、当地にある、住吉大社の頓宮(お旅所)を宿院といったことに由来するといわれています。
また一説に、昔、このあたりは寺社が多く、宿坊(宿院)がたくさんあったことに由来するともいわれています。

中之町(なかのちょう)

戦国期から見える町名で、「中小路」とも称したそうです。
昔の堺の町は、大小路筋を境に北荘と南荘に行政区域が分かれていて、当地は南荘の中央に位置したことに由来するといわれています。

寺地町(てらじちょう)

かつて少林寺の寺地(境内地)であったことに由来するといわれています。

少林寺町(しょうりんじちょう)

当地にある少林寺というお寺から名づけられました。
このお寺は万年山少林寺といって元徳2年(1330年)、桃源宗悟の開山と伝えられています。
最初は、開基の大檀越小林修理亮法の姓をとって『小林寺』と書いていましたが、のちに少の字に改めたのは、菩提達磨の少林寺にならったものです。

新在家町(しんざいけちょう)

旧市域の中心部の大小路に近くにあった本在家町に対し、ニュータウンという意味で名づけられたといわれています。

浅香・浅香山(あさか・あさかやま)

古代、「あさか」は広く住吉の地域に含まれる海岸地名でした。現在「浅香」という地名は、堺区と北区で使われています。

浅香山稲荷の由緒書から調べてみると、推古天皇(592~628年)の時代のこと、聖徳太子がこの地方を巡遊された折、白髪の老翁が太子に、『昔より此処に埋まる香木あり』と告げて去りました。
太子が不思議に思い掘らせたところ、古い朽木が出てきました。
これを焼かせてみると、芳香がたなびき、太子が『浅からぬ香り』と言ったことから、当地を『浅香』と呼ぶようになったと書かれています。

浅香が浅香「山」になったのは、江戸時代に大和川を掘った土で小さな山ができて、浅香山と呼ばれるようになりましたが、今ではすっかりなくなってしまいました。
丘陵としての浅香山は、現在の東浅香山町の北西部にあったそうです。

榎(えのき)

昔、このあたりは榎が多く自生していた野原であったことから、名づけられました。

三国ヶ丘(みくにがおか)

堺の地名のおこりと同じように、和泉、河内、摂津という三つの国の境にある丘ということから名づけられたそうです。
実際の国境は、反正陵古墳に隣接する方違神社の北東部、現在の北三国ヶ丘町三丁の北端あたりだそうです。

安井(やすい)

この地域を開発した安井正之という人の名をとって、名づけられました。

大仙町(だいせんちょう)

仁徳陵は大きな山のような御陵だということから、昔は大山陵と呼ばれていました。大山陵が大仙陵になり、この大仙陵のあるところから、大仙町と名づけられました。

戎島町(えびすじまちょう)

寛文4年(1664年)に大小路西部の北浜に砂洲が形成され、その後、戎神の石像を海中より得て神社を建て、島の鎮守としたことに由来しています。

大浜(おおはま)

江戸時代、堺のまちの中心道路でる紀州街道(大道筋)から二つ浜側の道路を「中浜筋」、四つ浜側の道路を「大浜筋」と称したことに由来しています。
明治時代には大浜公園に東洋一の水族館が開館するなど、大阪市からも日帰りで楽しめる都市リゾートとして賑わいました。

湊(みなと)

昔、堺の町は漁港でしたが、その後、貿易港となりました。
そのため、漁師の人々がだんだん南の方へ移り、このあたりの海辺に集まるようになって、いつの間にか「みなと」と、呼ばれるようになり『湊』の字で地名がつけられました。
『港』は、船が出入りする所という意味ですが、
『湊』は水のほとりに人々が集まる所という意味があるそうです。

神石(かみいし)

明治22年4月1日の町村制施行によって、それまでの上石津村と市村と踞尾村の三村が合併しました。
踞尾村と市村は神野荘に属し、上石津村は石津郷に属していたことから、神野の『神』と石津の『石』を合わせて神石村となりました。
しかし、明治24年踞尾村だけが分村し独立しました。その後、昭和13年に神石村は堺市に編入されました。

★踞尾村のその後は、西区の地名由来のページをどうぞ。
「踞尾」は「津久野」となって今も残っているだけでなく、「踞尾」が他の地域の地名の由来にもなっています。


資料:堺市サイト
ttps://www.city.sakai.lg.jp/sakai/kunitsuite/syoukai/arekore.html
https://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/jutaku/jutaku/jukyohyoji/chimeiyurai.html
堀田暁生編「大阪の地名由来辞典」※

堀田暁生編「大阪の地名由来辞典」について

堀田暁生編「大阪の地名由来辞典」(東京堂出版)は、大阪府内の地名の由来を記した本です。
当ページでは、こちらの本も参考にさせていただきました。
由来だけなく、地名の変遷や、どんなところだったのか、昔の文書でどのように書かれていたか等、とても詳しく紹介されています。
現存する地名だけでなく、今は無き地名もピックアップされています。
堺だけでなく府内全域の地名をまとめたこの本は、とにかくとても面白いので、地名や変遷に興味がある方にはオススメの1冊です。

大阪の地名由来辞典 [ 堀田暁生 ]